口伝

古来、東洋的な伝統ある技術、ワザの全ては口伝であった。宮大工、武術、医術、芸術などなど、全て徒弟制度の中での一対一の受け渡しであった。一子相伝の秘伝と言われたものがそうである。その内容には言葉に出来ない、本に書くことが出来ない微妙なやりとりでなくては伝えられないからである。ワザの究極は目には見えない氣の世界であることが原因である。氣の世界は全てそうである。特に勁空勁などの見えないものが相手ではなおさらである。外部の者に見せることはもちろん、兄弟子がしていることを弟弟子が見ることもない。序列が作られていた。私も先輩がしていることをマネして一人で訓練していた時には一人の中国人先輩が、いきなり大声で叱ったことがあった。それほどまで私の一挙手一投足は監視されていた。伝統的な芸術やワザはこのようにして守られて来た。そしてその内容は他者にはマネの出来ないものがあり、格段な違いがあった。昭和のホームランヒッターの落合はこう言っている。

ホームランは毎回の打席に立つ時には毎回打つつもりではバッターボックスに立っていた。誰かにアドバイスをしてくれ!と言われても答えられない!私が言ったとしてもオレにしか出来ないことを教えてくれ!と言われても、オレにしか出来ない、分からないものをどう教えれば良いか分からない!お前が自分で自分の答えを探さないといけない!私には落合の言っていることが良く分かる。意拳の王向斉老師の勁、ドクター尤老師の空勁、師母の揚氏太極拳の空勁と尤氏の空勁、と伝わってきたものは一人一人のそれぞれの独自の世界を開いたものである。同じことを私が習ったことではない。私には私が独自に切り開いた世界がある。百花繚乱である。同じように見えても同じことではない。それが自然な姿ではないだろうか?答えがあるようで答えはない。例えば、先代の師母が決してすることがなかった初対面者との勁空勁を私の生涯のテーマとして私の世界を築いたのである。口伝であっても同じことが伝わるとは限らない。人の気根が違うからである。植物も動物も、良く見ればひとつひとつ全て違うものである。日本の武術にはみんな同じに統一してファッションの服のようにお仕着せの吊るしのスーツを着るようなものがある。私も毎回の講習会での初心者との氣の交流では、ホームランを打ちたいと思って打席に立つのである。