文化の崩壊

もしも私が尤氏長寿養生功にその価値を認めて尤氏長寿養生功の習得に全精力、全精魂を傾けて無かったならば、尤氏長寿養生功が日本に紹介されることは無かっただろう。私が尤氏長寿養生功と出会った時には、師母は八十歳を越えていて師母が亡くなられたら、その前途は風前の灯であった。中国意拳を王向斉老師から習った先師が~氏意拳と呼んでそれぞれにその教えを引き継いでいるようであるが、意拳の勁力を空勁に進化、昇華させてチベット密教の瞑想とも融合させた尤氏長寿養生功は武術的な効果と健康治療法としての効果も他の氣功の追随を許さないものであったので、私が尤氏長寿養生功の世界的にかけがえのない価値あるものとしてその文化的価値に気づき認めて、私は毎日七時間の過酷な訓練を以って、誰よりも上達することを願ったのである。周りを見渡しても、誰がこの尤氏長寿養生功を伝えて行くのであろうか?と言う想いは使命感にいつの間にか変わっていった。こんなせち辛い世の中では、古代健康法、東洋医学や氣功武術を教えて職業にすることなど生易しいものではない。収入が僅かであってもこれまでやって来れたのはこの使命感にあったろう。氣功武術と言う新しいジャンルを開いた尤氏長寿養生功は師母亡き後に私が小さい火種を灰の中に埋めて再度火をおこして火勢を強めて、その火の勢いは今、日本から世界に燃え拡がろうとしている。伝統の技や文化は、一度失われると取り戻して再生復元することは難しい。同じものは出来ない。文化が崩壊する。文化の中には、たまに世界的に価値あるものもある。私には尤氏長寿養生功はその世界的に価値あるもののひとつであると思うのである。その価値に気づいた者は価値ある文化を守り育てる義務と責任がある。残念なことに私が教えた者に尤氏の文化的価値などはどうでも良く、教えて得るカネと売名に価値を認めて安易に考えて道場を許可なく開けてしまったことがあった。私のテレビ出演のマネで二番煎じをしたり、大瞑想家を気取っていた者も実際出たのである。文化芸術などには無縁の恥の無い者たちであった。伝統の文化を継承している喜びと幸せは他人や一般人には理解不能であるかもしれない。だが、事実、私は非常に嬉しくて楽しくて、幸せな日々を過ごしている。尤氏長寿養生功に価値を認めているのは日本人だけでなく、海外の外国人西洋人にもいる。尤氏の価値を認める人がいるところには、彼らがいる限り私は何処へでも出かけて行く。