氣と生命力

最近の私を五年前に私を見た人が見たら、きっと度肝を抜かれて驚くに違いない。アメリカから私の妻の遺骨を抱いて車イスに乗って成田空港に到着した時には迎えに来ていた道場生が絶句していた。以前の私は鉄人、超人と呼ばれるほど尤氏長寿養生功で鍛えた肉体を持っていた。家の階段から真っ逆さまに頭から落ちて左手首の骨二本を同時に折ってしまい、使える手は右手一本だけで妻の看病看護、炊事洗濯から鍼灸の仕事まで一人でこなしているうちに妻は急逝してしまったのである。葬儀から家の売却までまた一人で仕切って日本へ帰国したのが2015年だから五年が経過している。私の住民票が私の故郷に残っていたので健康保険が貰えて左手首の手術を受けることがやっとできることになったのである。トカゲの尻尾のように再生した手首の骨はピッタリ元に戻った訳では無い。尺骨骨頭はグロテスクに大きく尺骨はカーブして痺れと痛みの毎日だった。左肩は拘縮して右肩まで拘縮していたので少し動かすと強烈な痛みがあった。それに加えて、左脚の膝をケガしていたので歩けない。杖をついて歩くことで精一杯の状態である。そんなボロボロのドン底から今では一人で電車に乗って乗り換えて千葉まで行って脳梗塞後遺症患者の歩行困難者を歩かせることができるようになり、熊本まで一人で飛行機に乗って二十六名の多くの患者を二日かけて痛みのある患者、歩行困難な国指定の患者やパーキンソン病の患者を治して帰って来るところまで私自身を回復させることができている。循環器系統に問題がある私は血管が詰まり易く、脳や心臓の血管に血栓ができ易いのと血圧が高いのである。今でも薬を飲んではいたのであるが、思うところあって、三食食べていたのを一食抜いただけで血圧が薬を飲まずとも120/80以下の正常値に戻ったので氣が向いた時には二食抜き、とても気持ちの良い毎日を過ごしている。ここまで私を回復させたのは薬だけだとは思われない。私の尤氏によって養成した氣が生命力を強靭にして集中治療室から私一人だけ生還させてくれた、と私はそんな想いを抱いている。氣は生命力の元であり、生命力そのものである、とも言える。病氣になって、大怪我を負って、いざという時に頼りになる最後の砦は我々の生命力なのである。手術をしても、大怪我を負って回復を遂げることも医師が治してくれる訳ではなく、結局のところ自分たちの回復力、生命力にかかっているのである。昔、盲腸を手術した大相撲の横綱が盲腸の手術は成功したものの、縫合しても傷口が塞がらぬ為に死亡している。これこそが医師が治していない証拠で、手術の後の予後は本人たちの生命力であることを示している。昔の日本人は刀で切られても薬草で作った軟膏を塗ってマムシの粉でも振りかけておけば傷口は塞がり、命も助かっていたのである。昔の日本人は獣肉を食べずに雑穀や麦メシと野菜、メザシなどの小魚を食べていたので余分な脂肪がないから傷口はすぐに塞がったのであった。現代においては交通事故などでの手術で抗生物質を打ったり、病院食が麦メシメザシを食べさせるところは無いだろう。ましてやアメリカでは朝から油っぽいベーコンが食事で出る。元々バターを良く食べるので脂肪があるから手術の予後が良い訳が無い。私が手術後の経過が良かったのは尤氏氣功と私の三十年に及ぶ玄米菜食のおかげであっただろう。初回効果と言って、氣功と玄米菜食で作られた私の身体はたった一食抜いただけで血圧が正常値に戻ったりちょっと試しに飲んだサプリがとても良く効いたりしてしまう。氣と生命力はカネで買えるものでは無く、普段から養生して努力するから養成できるものである。面白いことに私の人生は私はあと五十年残っていると思って日々の努力精進を欠かさず、今日も一食いや、二食を抜くかも知れないか?