天国と地獄

大本教出口王仁三郎聖師がかつて、言っていた人間の生き方、考え方で死後、天国と地獄に行く行き先が決まるのだ、と。この世でどのように生きているか?心の有り様が地獄のように人と競い、己れのことしか考えない悪魔と通じる心はすでに地獄の中で生きているようなものであるから地獄行きは保証され、天使のように綺麗な心で他人に接して共に生きる生き方をしていれば、天国行きは間違いないものとなる。仏教で言う、 悪因悪果、善因善果である。ドクター尤老師は意拳の関係者に何度も挑戦を受けてどっちが強いか試してみようと言われたらしい。私にでは無く、私の弟子と手合わせしてみたら?と言って弟子が相手の手と自分の手を合わせたら、一度に飛ばされて尻もちをついたと言う。また、新規道場生が質問を矢継ぎ早にあれこれ言って来ると、Try my Way, と言ってその場を去った、という逸話を私は聴いている。争いと無駄な生産性の無い会話をしたく無かったようだ。当時ドイツまで留学して医師になった方であるから理性的でチベット密教の敬虔な信徒でもあったので不必要な争いを避けたのかも知れない。争いを避けたドクター尤老師を悪し様に言った者もいたかもしれないが、心ある者がこれを聞けばどちらが実力があって勝敗はすでについていたことは一度に理解できるであろう。これより先に中国に於いて私の動画が配信されているのでいつかは中国で一般の人、武術家を相手に空勁と勁のデモンストレーションをする機会が出て来るだろう。いつものことではあるが、挑戦を挑む者も現れることだろう。ドクター尤老師の理性とチベット密教智慧を以って対応できれば良いが?と願っている。天国と地獄に振り分けられている分岐点はこの世にあって生きる有り様にあった。ドクター尤老師と師母は天国で私をご覧になっているに違いない。

氣は競うために在るにあらず、心清き者を守るために在る

意拳から派生した尤氏長寿養生功はドクター尤老師によって創始されたことについては私が言わずともすでにご存知のはずである。形意拳と言う武術から意拳が生まれて意拳から武術氣功尤氏長寿養生功は生まれた。殺人と競争のワザの裏には氣が存在していたが、ドクター尤老師の医師と言う背景と老師の穏やかな性格と清いチベット密教への帰依によって創られた尤氏長寿養生功はもう競うためには存在していない。心の清い人を練磨して病魔から守るために存在しているのである。氣が宇宙のエネルギーと同じものである、ということは神のエネルギーであるから競うためのモノでは無い。究極には心を磨くためにある。殺人と競争の武術から病魔から身を守る医療として昇華した。殺人や競争のために用いれば宇宙のエネルギーはその心を許さない。新しい星を作る宇宙のエネルギーは創造と誕生のエネルギーであって破壊はその為の手段に過ぎない。競争殺人は愛と創造のチカラの前には無力である。

和を以って尊しとなす

七世紀に聖徳太子が制定して日本の官僚たちに日本人と日本の国の根幹を成す基本的要項を書いた十七箇条の憲法の第一に書かれたものである。これを以って日本人は争いを嫌い温和な特性を持った国民となった。しかるに、現代においては日本人同士が競い争うようになっていると私は思う。海外に住む日本人もまるでアメリカンのように日本人が日本人を裁判にかけて争うことも辞さず、日本人が日本人を騙してカネを奪い合う様相を呈している。誠に嘆かわしい事態となっている。理由が長年の不況のせいなのか?資本主義国となって長年経って腐敗した心のせいなのか?私には分からないが、幸せで無い者が自分の欲求を満たす為にそんなことで自分を幸せにしようとするからではないか?それでは、カネを以って尊しとなす!ではないか?売名、承認欲求など心の奥底の闇には人によって内容にさまざまな違いはあるだろうが、一貫して私に見えるものは不幸であるから和を保てない、ということである。幸せならば心に余裕ができて、他人と争うことはしない。実に哀れなことである。良くカネ持ちケンカせず!と言う。カネがあっても無くても争わずにいられるのが日本人である、と思う。スピリチャルな氣功など長くすれば他人とは争わぬはずだが、そうは問屋がおろさないのが人間の心らしい。海外に長く住むと争いの真っ只中に身を置くのでアドレナリンが絶えず放出されて戦闘モードになって心が荒んで来る。四十五年も在米経験のある私は日本に帰国して安全平和な日本がいたく氣に入り国民保険もあるし、介護保険もあるから大名のような生活に満足している。日本人と争う気持ちなど考えたこともない。私の半分はアメリカンのようで日本人を外国人の目で見ている自分を発見する。余計に大局、客観的に見ている自分が居ることに気づく。平和、健康、生きていく為の最低限のお金は人を幸せにしてくれる。尤氏長寿養生功は心を温和にして健康長寿として、完成した氣功整体によって老後になっても身を保つ手段を与えてくれるのでとてもありがたいと思う。

氣を感じる者、感じない者

私は初対面者との氣の交流、すなわち勁空勁を体験できることが、氣を感じる者と私の氣が繋がった場合のみに100%できるのであって、会ってすぐに誰にでもできる、と言ったことは一度も無い。たまに氣を感じない、整体師鍼灸師が私に会いに来て、私の勁空勁がかからないと言って尤氏長寿養生功のレベル、私のレベルが自分よりも低い、と私を悪し様に私の身体障害を治療家でありながら自分のホームページに書いてあるのを当時私の一道場生が私に送って来て読んだことがある。その内容は読むに耐えない、自己自賛の他人を悪く言って自分だけを褒める手口のゴシップ記事であった。私に張り合っても、負け犬の遠吠え式の幼稚な行為である。私よりもずっと歳下だから相手にしても私が大人気なく見えてしまう。こんな者には無視!が一番良い。武術にしても治療にしても、上とか下とか言う問題ではないのではないか?古希を過ぎた私は今でも武術、医学の勉強は怠らない。常に情報を得て私自身の得意分野の向上に努めているのである。それは毎日の朝晩の瞑想と同じで少しずつ薄い紙を貼って行く作業に似ている。大きな違いをすぐに感じる訳ではないが、やっているとある日、突然その効果があるとはっきり分かる時が来る。私の豊富な経験の中には敏感でない超能力者、氣を感じない鍼灸師、整体師、武術家等、結構な数の人間との出会いがあった。共生できる人との会話は新しい世界を構築するのであるが、競争心を燃やして上下を競う犬も食わない会話は何も産まない、時間の無駄である。一見、普通のおばさんが氣にとても敏感で、治療家である者が氣を全く感じない、この違いは一体何が原因なのであろうか?

正氣とクレンジング

正氣、Zhen chi については述べた通りである。尤氏に於ける站椿功と震脚ジャンプは心身のクレンジングを行なって、体内に溜まった邪氣を追い出して正氣に入れ替える手段としているのである。正氣の一つの代表に衛氣と言うものがある。風邪など冷えが浸入して来た際に皮膚のすぐ下に流れる身体を防衛する氣があってこの衛氣が侵されて風邪をひくと言うことが東洋医学の解釈である。そこからさらに深部に侵入した邪氣がさらに深刻な病いを引き起こして行く。尤氏のジャンプ震脚と站椿功はこの邪氣を動かし汗や排泄物となって排泄されて站椿功と震脚により培われた正氣が経絡を流れることになる。こうして邪氣が正氣に取って代わる、という仕組みなのである。もちろんこのプロセスは一朝一夕でできる訳ではなく、何年もの長きに渡る訓練の末に完成されることになる。クレンジングされた身体は正氣にみなぎり、健康で長寿を保つことができる。私はこの晩年の歳になって、三度目の人生を迎えて大きな事業を達成しようと意気込みに燃えている。その氣になれば、二度も三度も人生を送ることができる。せっかく生まれてきて、一度だけの人生ではもったいないではないか?

邪氣と正氣

東洋医学に於いては、病氣になった時は氣が病んでいる、とする。まず最初に氣が病んで病氣が始まりだんだんと深部が侵されて行く。最初に氣 の流れが悪くなっている時には指圧や鍼灸ですぐに回復をするだろうが、身体の深部に病いが及ぶと漢方薬のような湯薬が必要になって来る。邪気が育って大きい邪気を身体から追い出さねばならない。鍼灸の効果は停滞している邪気の流れを良くして停滞している邪気を流すことができる時である。鍼灸師は氣の使い手でなければいけないのである。邪気を追い出し、正氣を代わりに流して氣の流れを正常にすれば、病氣は自然に治るようになっている。歩行障害のある患者も脚の氣血の流れが悪くなり、脚は重く、正常な歩みができないでいるから、尤氏氣功整体で脚の氣の流れを良くして脚に溜まった邪氣を流して心臓に邪氣の詰まった血液を戻し、新しい血液が心臓から脚に送られると酸素と栄養素がたっぷりとある血液が古い血液と交換が行なわれて、とても脚が軽くなって歩き易くなる、というのが尤氏氣功整体の西洋医学的な説明解釈である。現代人は何でも医科学的な説明をしなければ納得しないから、特にアメリカンは科学的な解釈を好むので病名を英語で言ってあげたりすると妙に納得するのであった。そうでなければ医師としてヤブと思われ言うことは聞かない。また、即治した場合にはもちろんビックリして他の患者を紹介して来るので、早く治すことが大事になって来る。尤氏氣功整体は私に鍼灸の鍼が全く無い時に氣と整体だけで腕の上がらない五十肩の患者を駅の待合室で即治、完治させた経験から誕生したのであった。それ以来、完全な治療法として確立させて現在に至っている。邪氣はさまざまな原因から起きて経絡内に溜まり、停滞し始める。絶えず身体を動かして氣血の流れを良くして置くということが健康を保つことにつながるので、中国人が早朝に太極拳を訓練するのはこれが理由である。尤氏養生功も同じ理由で訓練を行なうのである。今はガン患者も練習に通って来るようになっている。汗をびっしょりかいて私の氣を受けて震脚ジャンプをしている。ジストニアの患者も私の氣を受けて床を転げ回って笑いが込み上げて来て自分がジストニアの患者であることを忘れているようである。邪氣と正氣の交換が運動しているあいだに自然と成されているのだ。震脚ジャンプで鍛える脚の筋肉とジャンプをすることで骨に刺激を与えるので筋骨から出る神経伝達物質が大量に発生して身体の免疫力が強化されることになる。ドクター尤老師がドイツ留学した医師であったので我々のする基本功は非常に医科学的な裏付けがある。ただの武術氣功では無いのである。ちなみに邪気を中国語でXie Chi(シエチー)、正氣をZhen Chi (ジェンチー)と発音している。正氣は瞑想を続けると正氣は身体中を巡るようになって来る。

氣と武術

武術のワザは星の数ほどあるが、そのワザを動かす裏には氣のエネルギーがある、と東洋の古代哲学は教えてくれる。東洋の武術は最終的に剣道でもそうであるが瞑想的なものになって行く。高段者同士の戦いに於いては、氣と氣の勝負となって行く。見えない世界での勝負となり力とワザの段階の上を目指すようになる。意拳の世界では、立って構えただけで相手がどれだけの技量を持っているかどれだけの修練を積んだかが、それを見ただけで分かるようになる。脚と腰の氣が地に降りて地面に根っこが生えたような格好になっている姿は相手を威圧する。もうこれで勝ち負けはついている。武術であっても、医術であっても、芸術であろうが同じことである。すでに目から神、シェンが出ている。鍼灸の達人と言われる鍼灸師は目細く目から神がほとばしり、患者が治療室に入る姿を見て細かい動きや匂い、顔色などをチラ見して証を判別する。まさに勝負の世界に突入する。邪気との真剣勝負なのだ。瞑想と氣功で毎日心身ともに鍛えて勝負に備えて治療に備える。私は武術家であって治療家でもある。毎日準備を怠らない。昔の剣術修行者と同じ心境である。