偶然か必然か?

時々思い出して考えてみることがある。どうして私が尤氏長寿養生功を引き継ぎ教授する許可を得て今教授しているのだろうかと、何故私であったのだろうかと思い巡らすのだ。迷っているのではない。たまたま私がサンフランシスコ近辺に住んでいたから尤氏長寿養生功に出会ったのか?私の他にも日本人はいる。私の他にも武術武道に携わる者がいる。東洋医学で治療をしている人もたくさんいるのだ。私が尤氏長寿養生功にドップリ浸る前から不思議にも一本の道とレールが敷かれているようにせっかく開けたオフィスをしめて訓練に励んだ。住む家、無料の部屋、家財道具一切を売って作った資金、全てが尤氏の訓練の為に存在して私の修行の為に用意されていたように感じる。修行が終えたことを師母に伝えれると、日本で教える時には師匠スジを明らかにするように念を押されて日本のテレビ局に招かれてテレビ局の番組で有名人を投げ飛ばすと、全てがうまく運んで大阪に道場を開いて、いっぺんに300~500 人の道場生が全国から集まった。これらの流れはもはや偶然ではない。私が選ばれてレールが敷かれた道を行け!とばかりに必然的に人生が用意されていたような感覚がある。出逢うべき人に会い、するべきことを成して次のステージに立つ。来年のタヒチもすでに前から決まっていたのだ。それでなければ、三十年以上も前に会ったタヒチアンが私を今でも覚えている訳が ない。前にも増して仲良くなって、住みに来い!とは言わないだろう。全てそうなることが決まっていた。必然だったのである。この必然がタヒチを経由してヨーロッパに進出することも必要で成さねば為すまで私にそうなるように状況は用意されるに違いない。もはや、私の運命なのである。断わることが出来ない。成し遂げるしかない。何かの見えないチカラに支配されている。