氣風

人の性格や考え方が影響して教えられたものとは違う芸風が出る場合があるのは次世代を継ぐ者の常である。同じことをするだけではそれこそ芸がない。ドクター尤老師も師母も決して初対面者とは氣の交流をしていなかったことに反して、私は敢えて初対面者との勁空勁にこだわりを持った。今限りなく成功率十割に近づいたことで私の選んだ道、氣風は間違いないものであったと信じている。創意工夫を重ねて成功率を上げて行く途中のプロセスは苦しくも楽しいものであった。初歩の誰にでもできる勁空勁の技術をある者に教えたら、全ての秘技を習ったと思ったアホウな者は舞い上がり、訓練することを辞めてしまって高慢心が出て言動と行動におかしなものがあるようになった。それ以来、私と交流が無くなったからそこから先の上達が無く、相も変わらず、同じ初歩中の初歩の勁空勁を教えて得意げになっている。私は師母からは勁空勁のワザを教えられたことは一度も無い。いつまでたっても基礎訓練で体幹と脚腰の筋肉筋力の強化に専念していたのである。これが良かった。華やかに見えるワザそのものには秘密は無い。絵画に例えれば、筆使いに秘技の教えがある訳ではなく、感性や絵の構成に特徴が出るのであるから筆使い以前の基礎を十分に学んで置くこと自体が重要である、と言える。師と一緒に居る時間の長さに弟子の技量は左右されるのである。その後に弟子の性格や考えが加味されて新しいものが先代のものから生まれてくる。青は藍より出でて青より濃し、とのことわざ通りのことは真の師弟関係を持った者だけに理解できる特権である。そのようにして伝統の文化は受け継がれて行く。