面影

最近、私が金銭的には恵まれていないのに、私は世界で一番幸せな人間ではないか?と思う私が居る。立派な家でもないのに、私が住んでいたアメリカの家に比べればネズミが住むようなワンルームのアパートであるにも関わらずである。同時に死んでしまった私の妻の面影が良く頭をよぎるようになっている。そして師母の面影も良く思い出す。私がこんなにも幸せになった私の姿を妻が生きていれば見せることができるのに、、、。師母にも私が神社で光に包まれたことを報告できるのに、と。師母の過酷な訓練に耐え、私の妻が寝たきりになった時には看病と介護に私は片腕片脚で全力を尽くしたので、師母と妻は私が100パーセントのチカラを注いだことを知っているはずであるから私には後悔は無い。が、今思うともっとチカラを尽くすことができたのではないか?と思うのも後に残された者の気持ちでもある。私の好きな人が他界するのは辛く悲しいことである。自責の念が起こるのは愛する人がいなくなってしまったことへの悔しさがあるからである。心の向くままに二人をしのぶと生前の面影がまぶたに浮かんで来る。師母との厳しい訓練では、師母に何度叱られただろうか?叱られる度に私は上達した。私の妻とはタヒチに新婚旅行で行ったこともあった。楽しい思い出は数え切れないほどある。私がサツマイモを焼いてコーヒーを入れて毎日おやつにして会話を楽しんだ。毎日何時も一緒だった。師母が夫婦一緒に練習に来い!と言うので毎日練習に行った。妻とはいつも一緒だったが、別れは必ず来る。師母も妻も私には悲しみよりも懐かしさの方が強い。時々は名前を呼べば、すぐ近くで返事してくれるように思えるのだ。二人とも今でもまだ生きている感覚がある。私が二人を忘れないから、今でも思い出すから、師母も妻もまだ私の中では生きているのだ。今では見えない霊となって私の周りに居るに違いない。二人には私の全身全霊で対したので、これより私が成そうとすることにも私が全身全霊で対するのを知っているはずである。だから、日本を離れて世界に尤氏長寿養生功を弘めることには何の不安も心配も無い。きっと私を影から支えてくれるに違いない。