万を以って練と成す

私は師母に何回勁をかけられ、空勁で投げられただろうか? 千や万では足りない筈だ。師というものは弟子を鍛える為に存在する。宮本武蔵五輪の書に、

千を以って鍛となし、万を以って練となす、とある。武蔵には師がいなかったから自分一人の修行であったはずだ。千を千回と言ったものか千日と言ったのであるか分からないが、千日とすれば三年、万日は三十年ということになる。となると、私は万を以って鍛錬したことになる。しかも師と一対一の妥協の無い訓練であった。付き合っていた女から、私に投げられてばかりいるのはみっともないからもう投げられるのは止めなさい!と言われて私と練習することを辞めて自分の下の者を投げることに集中していた愚か者が以前にいたのである。コイツは本当の修行を知らない。武蔵が現代に生きていたら何と言うだろうか?師によって何万回となく投げられ、叩かれる、その繰り返しでチカラをつけて行く。尤氏長寿養生功密教でもあるから、師の教えをそっくりそのまま受け継ぐことが大切である。投げられて、投げられて、三十年も投げられて覚えるものなのだ。今、私の指導員との訓練は未だ三分の一を過ぎた頃で、あと二十年かけて万となるのである。たった一か月私から習って師範と名乗り、三年瞑想して大瞑想家と名乗った者たちはこのブログを読んで何と思うのであろうか?