真剣勝負

食は中途半端に一食を抜いてはいけない。身体の癖も疎かに考えてはいけない。想念も簡単にあれこれ感情的になったり、悲しんだり怒ってもいけないのである。私が食を抜き始めてから一か月が経つ。大阿闍梨になる為に一週間食を断ち、水だけでお堂に篭っているとお線香の灰が落ちる音が聞こえて来るのだと言う。私の集中力はそれほどのものには至っていないのであるが、毎日直感的に感じていることが頭の中に出て来た。前述の三点健康法は生きる上の基本的なものである。その中のひとつでも間違えば、健康を保つことができないと思った方が良い。つまり、人生を生きる毎日の生活も食に限らず、今食べたいのか?お腹が空いているのか?今身体は体型を歪めているのか?怒っているか?悲しみがあるか?全ての行為に全神経を傾けて生きねばならない。自分の全神経、全感覚を総動員させてひとつひとつの行為をする前に真剣に全神経全感覚を向けた行為をする!生きることは真剣勝負であったことが良く分かった。最近ではオンラインで通信氣功や通信治療を頼まれる機会が増えた。見たことも会ったこともない初対面の人とのやりとりで良い結果を出さないといけないからそれこそ真剣勝負である。ひとつの言葉でも疎かに使うことなどできるものではない。この感覚は一食を抜いてから毎日のお腹の状態に神経を向け始めてこんな想いに至ったのである。こんな想いをしたのは尤氏長寿養生功に全精力を傾けていた頃以来のことである。その時には死にもの狂いでやっていたから今、食についても死にもの狂いの状態なのであろう。朝起きて、さあ朝食は何をどれだけ食べてお腹の調子を見て、今日は夕食を食べるか食べないか決定する、真剣勝負なのである。血圧を測る。今日も120/80を切っている。こんな血圧になっている時には血圧降下剤など飲んだら低血圧になって昏倒してしまうだろう。だから当然薬は飲めなくなった。自分の感覚を第一に考えて毎日の生活を送るようになった。昔の剣術修行者もこんな感覚ではなかったか?懐かしい感覚がある。一度熱海の旅館に泊まった時のことであるが、真夜中に自然に目が覚めて何かざわざわとした感覚がある。気になったので窓を開けてみると、何と旅館の外壁が燃えて火が我々の階に到達しようとしているではないか?別に慌てることも無く、私の妻を起こして事情を説明し、荷造りして部屋を出ようとしたら、電話で火事になっているから部屋を出るように言っている。何事も無く、脱出して旅館の外に出た。この時は私の感覚は研ぎすまされて寝ている時でもちょっとした変化を感じる脳波がシータ波になっていた、と思われる。おそらく私の今の状態がそのような脳波が出ているに違いない。修行の末にそうなったので食を断ち切り、食を抜くのも修行である、と思われる。生活を真剣勝負をする場である、と設定すれば人生においては良い結果を生み出すであろう。今一ヵ月が過ぎただけだが、これより先一年が過ぎたら、十年後にはどのような自分になっているのか興味のある修行ではある。