幸せと自己表現

人生を生きる目的が幸せになることとすると、その根底にあるものは自分という人間を他者、社会に分かってもらう、認められたいという願望が達成されることではないか?今まで太田氣功道場に現われたニセモノたちは自分が、自分だけが社会に認められたいという、自分を表現したい、自己表現をしたかったのではないだろうか?何が他者、社会にカッコ良く見えるか?という見栄を満足させることが彼らの心の根底にあったものと思われる。それに比べて私にはそれとは逆なものであったと思うのである。私の心にはカッコ良くなりたい、他者、社会にカッコ良く見えたいという屈折した欲望は無かった。ただ面白かった!の一言である。そして、極めたい!うまくなりたい!この心であったろう。そうこうしているうちに、テレビ出演の後には自然と一気に道場生が集まって増えてお金も集まる結果となってしまった。もし、私が商売人ならば、師母が病気になって危なかった時に道場生がたくさんいるのに私の道場を閉めてアメリカには戻らなかっただろう。ニセモノたちとは、手段と方法、目的が真逆である。カネが欲しいから学ぶ、売名とカネの為に道場を開ける、その為にはウソついて偽装工作をして能力実力の無さを埋めてごまかす。これは、自己表現とは言えないだろう。私は私の能力の無さを過酷な訓練と師母と一緒の時間を過ごすことで埋めたのであった。だから、苦労して一時期持っていた道場とお金も後に私を裏切る者に預けてアメリカに戻り、再度の訓練を再開したのであった。ここにニセモノたちと私の違いと差は、天と地ほどなものがあるのではないか?自己表現とはカネや売名の為にすることではなく、真に自分だけのチカラでどこまで自己を引き上げて向上できるか試す自分が本当に好きになれたもので試す試金石を探して努力する道である。その後に我々は幸せになる。