チーター

私のニックネーム、師母が私につけたあだ名はチーターであった。今の身障者となっている私を見たら信じる者はいないだろうが、私はサンフランシスコの道場では、一番すばしっこく、投げられた後には受け身を取ってすぐに立ち上がり、次の攻撃を師母に向けて準備が整っていた。そのやりとりを師母は大変気に入って、練習の時には私を離さなかった。私も気に入ってもらえるなら、もっと素早く練習の相手になりたいと全力を尽くして考えて練習した結果、ある日からチーターと呼ばれるようになった。中国の伝統的な武術においては、動物の名をつけて弟子を呼ぶ習わしがある。例えば、我々道場生を呼ぶ時には小虎シャオフーと呼んだが、私だけにはチーターと呼んだ。速く走って師母に立ち向かう私がチーターの動きに似ていると師母は感じたようである。そんな風に呼ばれるようになった頃から私は道場の筆頭格のような役をしていたようである。誰か以前に中国で教えた中国人が道場を訪れた時には、必ず私が呼ばれて師母の相手をする。最大級の強い氣を私に発して私を投げ飛ばして私は最大級の強いジャンプ震脚をして遠方から来た客のもてなしをしたものである。客の方も驚きを隠せない。当時の中国の靴は薄っぺらな靴底であまり強いジャンプは出来なかったようだ。いわゆるコンフーシューズである。一方、当時アメリカのバスケットシューズは靴底が厚く、靴底にご丁寧にエアーまで入ったシューズを手に入れることができた。それで強い震脚をしても足の裏は痛まぬし、外で立っていても足は冷えなかった。分厚いシューズで受け身を取っても足をケガすることも無い。もっとも屈伸を深く膝を曲げてジャンプしたので膝を壊すのは時間の問題であった。今でもこの時のことを思い出す度に良くこんな膝を壊すジャンプをしていたものだ!と自分でも感心するのである。一か月なら回復もするだろうが、私は全身全霊で全力のジャンプ震脚を二十年毎日朝晩の二回の訓練を敢行した。一回の練習時間は三時間半だから一日七時間、正月や誕生日など二十年のあいだに祝ったことも無い。でも後悔は一度もしたことがない。パーtィーに誘われても全て断わった。むしろ、私はこの過酷な訓練を楽しんでいたのであった。