審美眼

見えないものの本質を見抜いてその美を認める者の見る目を審美眼と呼ぶ。日本人の祖であるアイヌは、神と思われた見えないチカラ精霊を日本の神の語源となった、カムイと呼んだ。日本人の心の奥底にある自然への怖れと敬意を表して神、カムイと呼んだのである。言葉だけでは表せない見えない匠の世界では、その仕事芸術を神の領域にまで完成させるその審美眼が必要となる。百パーセントの機能性を持つワザや技術は無駄は究極にまで削ぎ落とされて、その形は出来得るだけ簡素化されたものとなる。その形を美しい!と感じる者は審美眼がある、と言えよう。そして、生き方にも美醜がある。醜い生き方をする者は醜いモノと合体する。一時期の気まぐれで尤氏長寿養生功に入門した者も醜い我欲の発現でニセモノ尤氏の道場をそれぞれ開いたのであった。本人たちの心が醜いものであれば審美眼の存在していないことは理解できる。骨董品の目利きをする者は一目見ただけでモノの良し悪しが分かると言う。美醜の判断も出来ぬ者は尤氏長寿養生功に関わることは出来ないだろう。そして目利きのできる者が彼らのワザや瞑想を一目見ただけでいっぺんにウソでニセモノか、ホンモノであるかは一目瞭然である。