情熱

幸せを追及しようとすれば、何でも良いから情熱を傾けるものを見つけねばならない。そして自分の人生を賭けても惜しく無い!と思い一心不乱に努力精進しているといつか自分が幸せになっているのを自覚することができる。経済的に不遇であっても、あまり気にはならない。特に自分の身体を健康にする氣功など身体的活動や精神統一ができるならば、これこそ人生を賭けても惜しくは無い情熱を傾けるものとなるだろう。私は尤氏長寿養生功を学ぶにあたり、中医の仕事も一時中断して家財道具一切を処分して資金を作りこの氣功習得に備えて小さな家の一室を私の患者さんから提供されて毎日師母の住むサンフランシスコの道場に通った。脚の筋肉痛は二年経っても収まることはなかった。正座もできない。雨の日も風の日もクリスマスも誕生日でも練習に出かけた。私の心身に変化が起きていたので明日はどんな変化が起こるのであろうか?来週は何が変わるのであろうか?という興味が私を練習に駆り立てていた。この氣功を用いて有名になりたいとか、カネを儲けてやろうという野心は持つ暇もなく次の日の訓練に集中していたものである。私の友人からは変人扱いされていたはずである。そんな周りの評価も気にならず、心身の変化向上が私にはもっと重要であった。尤氏に注ぐ時間とカネは私への投資であったのだ。その甲斐あって師母から日本での教授を許されたのである。ニセモノたちには到底できることでは無いだろう。私が許可してもいないうちに訓練もそこそこに勝手に自分で師範総大将の称号をつけて道場を開けてしまった。本人たちがニセモノであることを一番知っている。情熱は何処にあったのだろうか?彼らの情熱と私の情熱は同じものでは無い。私のホンモノの道と彼らのニセモノの道とは交わることなどはあるはずも無い。ニセモノを教えて幸せになることなども無い。