心身一如

光に包まれた体験をした後から、私の心も身体も共に妙に軽やかで不安やイライラなどの心の問題が何処かに行ってしまったようで、と同時に左脚の強烈な痺れと痛みも急に無くなったように軽やかになっている。足の裏に猛烈な痺れがあったので歩くことに不安があった。痺れがだんだんひどくなって来ていたのである。が心が軽やかになったら脚の痺れも改善して来て、現在朝の四時なのに勝手に目が覚めて軽やかになった心身はサッと起きてベッドに座ってこれを書いている。私が通氣になったのが1992年のことだから、28年が経ている。私の身体全体に氣は巡り、丹田に氣が降りて最近では氣に包まれる体験をしたほどに私の脳波がすっかり変化進化を遂げてアルファー波からシータ波にレベルが向上しているようで、身体が変わると心も変化するようである。心身一如とはこのことを言うのではなかろうか?果たして悟りと言うのも心身一如で、心が進化して身体が心に追いつきバランス良く釣り合いの取れた状態で心に不安など一切が無くなった軽やかな状態を指しているのではないか?と私の体験を通して説明できるのでは、と言う想いでこれを書いている。もちろん私が悟りの境地に入ったなど生意気なことを言うつもりは無い。ただこの心身の軽やかさは一体何だろう?と言う感覚を第三者的に分析しようとしているだけである。脚の回復がすぐそこまで来ているのか、心がもう一段階向上しようとしているのであろうか?自分にも分からない。何かがもっと劇的に変化しようとしているのではなかろうか?と言う期待もこもった心が身体を引っ張って軽やかな心に身体が追いつこうとしているのだろうか?これを書いているうちにそんなことはどうでも良い、軽やかになった心に身体を合わせれば、自ずと心身一如となり痺れも痛みも次の段階になって回復して行くのだろうとこれも軽やかな気分でまるで他人が私自身を眺めているようにもう一人の自分が私の身体を離れて私を見ているのである。そういえば、以前にも同じ体験をしたことがある。あまりに遠い過去のことで忘れていたが今思い出した。瞑想を深くしている時だった。私の意識というか、もう一人の私が身体を離れて私の頭の右側にいて、いつでも何処でも私を見ている。私が言っていること、していることをジッと見ていちいち批判するし、アドバイスもする。めちゃくちゃ頭の良い奴だった。今では居なくなってしまったが、居なくなると懐かしい。アイツは何処に行ってしまったのか?と思っていたが、やっと戻って来たようである。心身共に変化する時に現れる私の分身のような存在である。道教では童子と言って物質化して実際に子どもが現れていろいろと世話をしてくれるのだと言う。そんなことなどしてはくれないが居てくれるだけで味方が居るように妙に落ち着き安心になる。これは明らかに心身が劇的に変化しようとする前兆であることは前の私の体験から言えることである。何かが良い方向に変わろうとしているのである。これだけは間違いない。今日から脚の痺れや痛みに変化が起こるだろう。来月七月のリハビリが楽しみである。リハビリの先生が何と言うか?最近ではお尻にかかとがつきそうになるほど屈伸を深くできるようになっていた。来月にはかかとがお尻につくかも知れない。五年前に比べると奇跡の回復である。光も奇跡であった。最近の私には毎日のように奇跡が起きている。生きていること自体が奇跡であるから毎日奇跡が起きて当たり前なのだが、我々の感覚がいろんなものに汚されて鈍くなっているので、感じることもできないのである。住んでいる地球が信じられないスピードで太陽の周りを回り、地球自体もすごいスピードで自転している。しかも規則的な四季が毎年訪れる。このこと自体が奇跡だが、奇跡だ!と驚く者は非常に少ない。高度に心身一如になった者には奇跡が毎日起きているようである。それは毎日が楽しく嬉しい幸せな毎日なのではなかろうか?